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運営者情報:イノウエPRマガジンについて

「イノウエPRマガジン」は、有限会社井上工業所が運営しています。昭和22年創業の、大阪にあるオリジナル紙袋の製造会社です。井上工業所は紙袋を作る会社なので、あらゆる業種の小売店がお客様です。集客のお悩みを伺うことが多いため、それなりに知見のあるスタッフが「イノウエPRマガジン」を作成しました。お役立ていただければ幸いです。

こんにちは!営業マンの「店潰しかけた熱血野郎」です

イノウエPRマガジンを書いているのは、井上工業所の営業マンである私、店潰しかけた熱血野郎(35歳)です。最初に言っておきますが、潰しかけた店は井上工業所ではありません!私は昔、居酒屋の雇われ店長と、カフェのオーナー店長をしていました。潰しかけたのは、後者のカフェです。

色々あって現在はサラリーマンをしていますが、この時の経験って貴重なのではないか?と思い、「イノウエPRマガジン」を書くことになりました。

このページでは、なぜ僕がこのサイトを書いているのかをお話しします。

バイトの延長で居酒屋に入社。24歳で店長になったのです

僕は、旅行に夢中で就活忘れてた~という、あんまり頭のよくない学生でした。焦った僕は、当時バイトしていたチェーンの居酒屋に、雇ってくれ!と頼みました。バカじゃない?と思われますよね。否定はしません。

でも、僕はバカでもグウタラではありません。やるとなったら本気を出すタイプ。バイトではホールリーダーでシフトも作っていたし、人間関係も良好でした。だからあっさり就職できました。

2年経ち、店長が異動して僕が後釜に据えられることになりました。彼女に、「もう店長なんてすごいね」と言われてニヤけました。24歳で店長なんて、飲食チェーンではよくある話なんですが。彼女の手前、店長の肩書きが欲しくて引き受けました。そうです、やっぱりバカですよね。

想像以上に悲惨だった雇われ店長の仕事

雇われ店長の時代に、僕は虫歯で歯を3本失いました。

やることが多すぎて、店を閉めても家に帰れない。24時40分に閉店した後、朝まで残業なんてしょっちゅうでした。立ち仕事の後で、体はクタクタなのに。

特に重荷だったのが本部報告。売上げ、売上げ予測、限定メニューの提案、アンケート回収率の向上策、集客アップ策、リピーターの獲得策、キャンペーンアイデア……の提出を求められます。僕の店じゃないから仕方ない。でも、頻度が高すぎるんです。報告というより監視です。

クレームは自分で処理。酔っ払いが備品を壊したり喧嘩したりしても、本部が弁護士をつけてくれるなんてことはないのです。本部に直接クレームが入った場合は、店長に罰金が科せられました。クレーム一件4千円。どこかの誰かが「ポテトがおせーよ」と電話するだけで、僕の給料が減るんです。当時の僕の手取りは、20万円から23万円でした年収は260万円切っていました。

3年で心身共にギブアップ。厳しい条件で店を切り盛りした経験は自負心にもなったので、自分の店を持つと決めました。

夢の脱サラ!自分の店を始めました

僕の計画は、子育て世代が多いベッドタウンでカレーとコーヒーの店を出すこと。繁華街でお酒を出すのはうんざりだったし、ソフトドリンクだけだと客単価が低い。カレーなら子どもも大人も食べられるし、何より廃棄が少ない。次の日に食べたって美味しいし。予算的に都心は無理なので、ベッドタウンを選びました。

居抜きの物件を探して什器購入を最小限にし、チラシのデザインは友達に頼み、廃業した店から食器を譲り受け、制服はGUのポロシャツに。方々駆けずり回りました。でも、蓄えはゼロなので1,200万円の借金が必須でしたこうして僕の店は、大きな夢と借金でスタートしました。

お客さんがこない。でもそれは序章に過ぎなかった

もうおわかりだと思いますが、店はガラガラ。大コケでした

僕の算段は「カレーなら子どもも大人も食べられるし、何より廃棄が少ない。次の日に食べたって美味しいし」という、実にアホっぽいものでした。事業計画書なんて言葉も知らなかった。

やってみると、子連れの母親は、カレー店には入らないことがわかりました。

店のカレーは辛いという先入観があるからです。「子ども用の椅子、甘口あります」と黒板を出したって効き目はなし。先入観がある限り、看板を見てもらえない。

「暇な主婦がママ友とランチ」なんてテレビのネタは、それを見たい人向けの嘘だとわかりました。堅実な主婦はカフェで暇つぶしなんてしないし、外出先で食事を取るのは当たり前の話。近所のカフェに用はない。

この二つに気づいたのは開業して二週間目。すぐに僕は舵を切るべきでした。でも、できませんでした。店の準備に1年かかったのに、二週間で「あはは!いろいろ間違ってたわー」って認められなかったんです。そこで僕は、三ヶ月目に最悪なことをやってしまいました。

ネットの悪評が障害に。借金を抱えた僕、無事死亡。

バイトの首を切ったのです。

起動に乗るまでは最小限の人件費で頑張るつもりだったので、バイトは一人。フリーターの女の子に、週5日出てもらっていました。僕は週6日フル出勤。

内情を話して納得して辞めてもらったつもりでしたが、解雇は即日でした。この浅はかな行為が、最下層行きエレベーターへのボタンを押してしまいました。

翌週、彼女は不当解雇で僕を訴えると言い、30万円請求してきました。僕には払えなかった。すると彼女は、Googleや食べログなど、考えつく限りのネットレビューにナパーム弾を大量投下。連絡がつかなくなりました。

この時に書かれた店の悪口が、後々まで経営に甚大な影響を及ぼすことになりました。生活できないよりも怖いのは、借金の返済分が売上げから出ないこと。毎日ギリギリの精神状態でした。胃が痛くて眠れない。心臓がドキドキする。喉が渇いて熱が出る。人間って、心がつらいと肉体的にも痛みを感じる生き物なんですよ……。

資金がなくてもできることを、何でもやってみた

生活できていたのは、開店と同時に結婚してくれた彼女のおかげです。正直、ヒモ同然。彼女にとっても地獄だったのに、よく離婚されなかったものです。

3年間、あがいてあがいて頑張りました。まずはお店のコンセプトの見直し、お店の名前もメニューも看板も、全部をやり直しました。それから集客。

広告を打ちまくってお客さんを呼べれば話は簡単ですが、借金まみれで月々の返済がやっとな経営者に、誰もお金は貸しません。少ない予算でできるプロモーションを必死にやりました。

Webの勉強もして、『Webライティングの書き方』系の本を図書館で借りて沢山読みました。だんだん、効果が出るもの、出ないものの手応えが出て、夜は眠れるようになってきました。

軌道にのって売上げ8倍に。だけど、店を畳む!?

そんな時に、娘が生まれました。娘の誕生は、僕の人生をV字回復させる一里塚なんです。

娘と過ごす休みをとるために、Sさんという社員を一人雇いました。バイトではなく、僕の代わりになる人が必要だったからです。

この人を雇ったのが大正解。Web代理店で働いていた経歴を生かして、Sさんが貸し切りパーティーや、イベントに合わせた仕出しプランを作り、広告費も見直しました。娘と過ごしていると、親子連れの本当のニーズもわかってきました。とても勉強になる日々でした。

オープン当時、日に1万円切っていた売上げが、3年目には3万円になりました。5年目には8万円に!

月の売上げが200万円越えれば、僕も社員も食べていけます。一般的に、カフェの月の売上げが200万円はまあまあの部類で、儲かっているところはもっと儲かっています(駅ナカだと、回転率が10とか15とかになるので)。

その場合は、人も沢山増やさないとやっていけない。僕が自慢したいのは、席数も従業員数も増やさずに売上げが8倍になったことなんです。

ところが、やっと落ち着けると思った矢先、僕の人生に激震が走りました。妻の両親が、相次いで倒れたのです。すぐに僕はSさんに連絡しました。店を買って欲しいというお願いをするために。Sさんは引き受けてくれました。借金を負わせてしまいましたが、あの店とSさんならやっていけると信じていました。

営業マンになりました。そしてこれを書いてます!

妻の生家は大阪でした。大阪には何の当てもない。また店を持つのもいいけれど、病院との往復や介護を考えると、また勤め人に戻るのも悪くはないなと思いました。人生は短いのです。

そこで思い浮かんだのが、井上工業所。

実は井上工業所は、居酒屋時代もカフェ時代も、ずっと利用してきた紙袋屋さんです。何度かやりとりをしているうちに、ものすごく業績を伸ばしているという噂を聞いていました。製紙業界は伸びているし、この将来性に乗っかりたい!(と書いたら怒られるかもしれませんが)と思ってたら、本当に偶然ここで働かせてもらえることになったんです。奇跡ですね~~。

井上工業所のお客様は、上場企業から商店街のお茶屋さんまで幅広いですが、僕がお伝えしたいのは、巨大な広告予算を持つ大企業ではなくて、主に小売店の方に向けたもの。

どうやって、少ない予算でも集客していけばいいのか。どのショップの方にも共通のお悩みだと思います。紙袋の話も書きますが、小売店にできる、できるだけお金をかけない販促・PRという話を書いていきます!

以上、熱血野郎でした~。